一夜も夢に・前編
戦いの最中だというのに、その瞬間、わたしの世界から音が消えた。耳鳴りがする程の静寂。
寝太郎――――眠りに誘う術だ――――と気付いた時には既に遅かった。こんな所で意識を手放してはいけないと分かっているに――――実際に、鬼の一撃で体が吹き飛ばされているという自覚があるのに――――受け身も取れずに地面に叩き付けられた。痛みと焦燥感。抗おうとする意志。その全てがこの世の悪意を煮詰めたような暗闇に、引きずられるように堕ちてゆく。
お、ど、る、ちゃ、ん…！
駆け寄る満ちゃんの声が、奇妙に間延びして響く。術の詠唱を始める気配。しかしそれより早く、ごうっと風が唸った。
身を切り裂く力が込められた魔風。血飛沫。満ちゃんが苦痛に顔を歪める。だが、これも直撃でなかったからこそ、手足が斬られた程度で――――わたし達の前で、太刀風の術を正面から受け止めた人影があったからこそ、この程度だったのだ。
「ま、な――――」
再び風が唸る。
今にも倒れそうにぐらりと身体を傾けて――――薄ぼんやりとした視界でもはっきりと血塗れで――――。それでも学さんは決して膝を折らなかった。手に持つ刀が、淡く滲んだ光に、浮かび上がって見える。砂埃が舞う。三度、風が吹き抜ける。まるで雷を帯びているかのようにぱちぱちと音が鳴る。
「学さん！！」
嫌だ、と。満ちゃんの絶叫が響き渡る。
底なし沼のようにどろりと凪いだ水面の上を、残響が渡っていく感覚を残し、わたしの―――わたし達の体は迷宮から弾き飛ばされた。
隊長としてこの討伐隊の全権を任されている学さんが意識を飛ばした事で、迷宮退去用の引波のお守りが強制発動したのだ――――と理解が及んだのはずっと後の話だ。
まなぶさん。
実際に、呼びかけられて等、いなかったのだろうと思う。彼は全く反応を見せなかった。見せられる筈がない。ズタズタになった体。肉が抉れ骨が露出し、しかしそれすら真っ赤に染まり、びくりと内蔵が脈打つ度に更に血が噴き出している。同じように体を起こした満ちゃんの喉がぐうっと鳴ったのは、嘔吐感からだろう。一方でわたしの動きは的確だった。傷口を洗い、回復の術を唱える。皮肉な話だが、あの寝太郎の術の影響がまだ強く残っているこそ出来た行動だ。心と体が切り離されている。痛みを、吐き気を、怖気を――――湧き出て当然の感情が浮かび上がらない。一拍遅れて顔を歪めた満ちゃんが同じ行動を取ったのが分かった。
初夏の入り日に、木々が深紅と濃い闇に染まり始めた頃、学さんの作り物のようだった肌の色に微かな赤みが差し始めた。微かに動いた唇からごほっと血の塊が吐き出され、同時にゆるりと左目が開かれた。緑の光彩が混じる濃い青の瞳がわたしの顔を捉える。やあ、踊くん、と彼は掠れて細く、今にも消え入りそうな声で囁いた。
お父様も、当主の今日子さんも時々間違うのに（勿論今は装束が全く違うから、見分けも容易いだろうけれど）、この人は、決してわたし達を見誤らない。衣装を交換したって気付かれる。学さんは凄いね、と言ったのは満ちゃんで――――違う、それはわたしだった―――。否、そんな事は如何でもいいのだ。何故、そんな些末な事に、思いを馳せているのだろうか。まるで学さんが、過去の出来事になってしまうかのようじゃないか。
「無事、で――――何より、だ…」
何も答えられないわたしの態度を気にする素振りも見せず、視線が僅かに動く。満くん、と今度は言ったようだ。君も平気か？と尋ねたのだろう。その言葉に、満ちゃんががくがくと頷いている。ほんの少し、空気を揺らすような気配が感じられた。もしかしたら、学さんは笑ったかもしれない。
「ぼくは、君達を――――守れたのだな…」
…今日子さんが、待っている。
だから――――帰ろうじゃないか。皆で。
そう――――皆で。
回復術を施し、携帯していた包帯などで止血をした筈なのに、布が見る間に真っ赤に染まり出す。三人でお互いにお互いを支えながら歩を進める度に、ぽたりぽたりと血が滴り落ちていく。
けたたましい声を上げて枝を揺らし、飛び立ったのは鴉だろうか。それとも他の鳥だろうか。
矢張りあの術の影響で、わたしの心は麻痺してしまったのだ。吹き付けてくる風を正面に受け。よろよろと覚束無い足取りで、今にも倒れそうになりながら。満ちゃんが泣いているのを視界の端に捉えながら。自分が同じ顔で泣いているのを自覚しながら。わたしはそんな事を考えていた。
大丈夫…。
ぼくは。皆を、守るのだから。
君達に、辛い思いを…させたり、は――――。
――――だから…泣かなくて――――。泣かないで――――。
この期に及んでわたし達を気遣い続ける、その声が聞こえなくなって、どれだけの時間が過ぎたのだろう。
――――残照は退き、紫紺に染まった空には星々が瞬き始めていた。
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