降りゆくものは
後編
頭の芯が嫌な音を立てていた。
きしきしと、氷がひび割れるような音だと思う。それが頭蓋の中で響いて、酷く頭が痛くて、気持ちが悪かった。何をしている訳でもないのに眠りは浅くなる一方で、夢でも現でも様々に響く言葉が仕付け糸のように絡まっている。大丈夫だよ。心配するな。辛かった。僕が守るから。苦しかった。もう諦めろ。蛇の口の中の左腕。絶叫。視界が真っ赤に染まる。もう嫌だ。ごめん。ごめんな。
――――オレは、別の所に。
生き物のように広がる血の記憶を振り払うように首の付け根、髪の生え際をぐっと押す。気休めかもしれないが、何度か繰り返すと心持ち症状が穏やかになるような気がする。万全からは程遠い体調。そもそも私が十全であったのは、何時が最後だったのだろう。恐怖など微塵も感じず、何処まででも駆け抜ける。そんな楽観を抱いていた。あれは何時だっただろう。私は、何故、何の為に、ここに、居るのだろう。如何して私の、傍には――――誰が。誰も。
がたり。
きちんと閉められていなかったのか、障子戸がずれ、風が通り過ぎて行く。生臭さを吹き飛ばす透き通った冷たさに、一年前の、初めて経験する冬の記憶が。空を羽のように漂いながら冷えた空気と触れ合い、透明な音を立てる雪と真冬の川の匂いが蘇る。
小川沿いに進むと目に飛び込んでくるのは赤く塗り直されたばかりの鳥居。雪が両脇に寄せられ掃き清められた参道。そこを飛び跳ねながら歩いたのだ。奥には拝殿を構えた境内。注連縄に紙垂をたらした大欅の向こうに神楽殿がある。祭囃子の間を縫うように、饅頭を蒸す甘い香り、炙った餅に塗られた醤油の焦げた煙が交互に立ち上り渦巻いていたのを今でも鮮明に思い描くことが出来る。
お祭りは――――お父さ、破戒神さまが地上に降りる少し前に再開されたという餅と白雪祭りは――――楽しかった。神楽は無粋な私から見ても素人臭かったし、お囃子は大分調子が外れていた。お御籤は末吉だったし、炙り餅は端っこが焦げていた。勢い込んで齧り付いた饅頭を喉に詰まらせかけた。
だけど――――楽しかったのだ。非日常の出来事。束の間の、陽炎のようなものだったのかもしれないけれど、そこには確かに胸を高鳴らせるものが存在していた。一緒にいた二人も、その高揚を共有したと思っていた。同じものを、見て、同じ事を、感じていたのだと。
ねえ、また一緒に行こうね。
そうだ。私は――――あの時、確かに、振り向いて、そう言って。そして。
真心ちゃん。
真心。
音もなく降り出した雪。ぼんやりと頼りない光を吸い込み、薄く滲んだ影のような後ろ姿が二つ、そこにはあった。
何をするにも大抵私が先行していたから、二人の背中を見た記憶は余りない。だけどすぐに彼等だと分かった。転げるように庭に下り立つ。しかし、それを待っていたかのように、背中がゆらりと揺れ、僅かばかりの距離も縮まらない。
「待って…！」
白い雪と黒い川。灰色の空。
体だけが先行し、足が全くついていけないのがもどかしい。冷たい空気が体温を削り取っていく。目の中に黒い斑が生じ、幾ら瞬きをしてもそれは消えなかった。むしろ幅をどんどんと幅を利かせて影となり、まともにものを捉える事ができない。
周囲の楽しそうな騒めきが遠くにある様に聞こえる。離れていく。行ってしまう。音が。祭囃子が。二人が。また一緒に行こうって、言ったのに。
「あっ…」
足がずるりと横に滑る。転ぶ、と思ったその瞬間には体勢が大きく傾いでいた。積雪のお陰で大した衝撃はなかったが、視界がぐるりと回るような不快感が脳天を貫く。唇を噛み、嗚咽を堪えるけれど、堪えた分が厚い塊となり、胸の底に重石となって落ちていく。苦しくて、痛くて。声が出せない。背中が、遠ざかる。
行かないで。
待って。行かないで。お願い。私を置いて行かないで。
やっとの思いで伸ばした腕に触れる温かさがあった。
ぼんやりとした影のようだったけれど、すらりと高い背を屈めて此方を覗き込んでいるのは分かった。
滲む視界に広がるのは新緑を映した柔らかな萌葱色。
二人共、そこにいたんだ。そうか。そうだよね。私達はずっと、一緒だもんね。
「楽しかったね。また、行こう。お祭り――――行こう。きっと、もう、始まっているよね。祭囃子が、聞こえるでしょう？覚えているでしょう？一緒に行こうって、言ったでしょう？だから――――行こうね――――」
友兄さん。
潤。
影が僅かに身じろぎする。はあ、と小さく息を吐きだしながら、ゆっくりと――――頷いたようだった。一緒に行こうと、言ってくれたようだった。矢張り二人は私の傍にいてくれるのだ。それなのに、その、哀愁に滲んだ瞳に、心が訳もなく震え、揺れた。振動が風のようにゆるりと体を通り過ぎ、後に残るのは喜びではなく鈍い痛みだけ。あふれた涙が後から後から零れ落ちて行く。
如何してだろう。
如何してこんなに、寂しいんだろう。
「降りゆくものは」了
←前編へ