行くも帰るも別れては・後編
最初に意識したのは、何だか煩いな、という不快感でした。
虫の声。枯れ葉が揺れる音。今まではむしろ、心地良く感じていた筈の音の連なりが、酷く耳障りに響きます。次いで意識したのは、見慣れた天井。八九寺家の――――わたしの、部屋。あ、寝ていたのか、とぼんやり考えながら、自然な動作で身を起こそうとしましたが、脇腹に鋭い痛みが走りました。再び床に背を付けてしまいます。首が、肩が、腕が――――体の全てが痛みを主張しているようです。うう、と呻き声を上げるのを見かねたように、無理をしなくていいよ、という声が、頭上から降ってきました。
「…こうやくん」
これは、わたしの声でしょうか。
掠れた響きは、まるで他人が話したように耳に届きます。或いは実際には、声に出ていなかったのかもしれません。だけど、うん、と彼は頷きました。
「怪我が、まだ…完治していないんだ。無理をしなくて、いいよ」
暗く沈んだ言葉を契機に、記憶が繋がりました。
突然飛び出して、そのまま鬼の一撃を喰らって吹き飛ばされたなのかちゃんを助けようと駆け寄った途中。がら空きだった背中に、鬼の術が炸裂したのです。更に脇腹を強く蹴られ、刀を取り落として。からんと乾いた音。拾わなければ、と腰を屈めた、その視界の端に、鬼の姿を捉えた――――途端に、この世の終わりのような衝撃。巨体ごと叩き付けられた勢いで、一度体が浮き上がり、その勢いのまま落下しました。何度も何度も跳ね、鈍い音が体の中を巡ります。真っ赤に歪む視界の中で、当主様が倒れ込んでいました。首や手が不自然な方向に曲がって、血塗れで、まるで人形を握り潰したようでした。なのかちゃんの絶叫が反響して。頭が、手足が、体の中が痛くて。
痛くて。
痛くて。
それが、不意に途切れて不自然な位に楽になって。
わたしは――――。
「…？」
右手の中の柔らかな感触。開いた掌からふわりと零れ落ちたのは、大きな鳥の――――鷹の羽。
――――ここから帰るんです。
「お父さん、は？」
なのかちゃん。当主様。
一緒に戦った人たちを差し置いて、何故真っ先に父の不在を気に掛けたのか、不思議です。いいえ、心の底では分かっていて、ただそれを、認めたくなかっただけだったのかもしれません。
鋼矢くんは一度息を呑んで、それでもはっきりと言いました。
「鷹比等さんは、亡くなったよ」
「嘘だよね」
「………」
鋼矢くんは、頷きませんでした。
「…嘘だよね」
鋼矢くんは、今度ははっきりと、首を横に振りました。本当の話だ、と言いました。
「此処に運んで来た時に…鵬喜ちゃんの心臓は止まって――――死んでいたんだ。どれだけ回復術を施しても、息を吹き返す気配はなかった。だから、鷹比等さんが言った」
反魂の儀を、行えませんか。
死者から見て直系の尊属のみが行える儀式。彼岸を渡ろうとする魂を見つけ出し、呼び戻す儀式。
鋼矢くんは、淡々とその概略を説明します。
「だけど…それで、如何して、お父さんが…し…、居なくなる、の…？」
結果が変わる訳でもないのに、死んだ、という直接的な表現は、使えませんでした。
「反魂の儀は、幽世の扉を開き、魂を見つけ、連れ戻すだけじゃ終わらない。扉を閉じなければならない。だけどその扉は、死者の側からしか閉じられない。鵬喜ちゃんがこちらに戻ったら――――誰かが、彼方に残るしかない。代わりの、死者として」
後から思えば、この事を一切の誤魔化しなく告げるという行為は、どれ程の痛みを鋼矢くんに齎していたのでしょうか。でもわたしには彼を慮る余裕などなく、ただ、その顔を見詰めている事しか出来ませんでした。
その蒼い瞳に、わたしの顔が映っています。
お父さんと同じ肌の色。お父さんと同じ、金色の瞳でした。
「鷹比等さんは鵬喜ちゃんを助ける為に――――身代わりになって、死んだんだ」
寿命以外で死ぬような真似はするなって、言われていて――――。
堕ちていく意識の中、最後に目にしたのは、わたしが居た場所に、引き返していくお父さんの姿。
あれは。あの時の交わした言葉は。夢でも、幻でもなく――――。
――――貴方を助けられる訳ですからね。
誰かの絶叫が聞こえてきました。喉の激しい痛みで気付きました。叫んでいるのはわたしでした。喉が痛くて、息が出来なくて、虫の声が煩くて。
貴方が――――で、いてさえ――――。僕は――――。
聞こえない。聞こえないよお父さん。煩いの。声が、音が、煩いの。わたしの世界は木漏れ日のように輝いていて、とても暖かかった。それなのに、もう全然、そんな風に思えない。討伐で傷を負った時に、奇麗なものも一緒に零れ落ちてしまったのだろうか。今はただ、寒くて真っ暗で、怖い。
如何か覚えていてください。
お父さん。
最後に、私に何て言っていたの。
「行くも帰るも別れては」了
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