跼天蹐地（きょくてんせきち）
鞘落真白は、それがどんな内容であっても基本的に何かを頼まれれば断らない男である。
だから、絵の題材になって欲しいという唐突なお願いも、多少の困惑を―――自分などが何故―――という疑問を抱きつつも了承したのである。
「父上の優しさが、良く分かります」
「…うん」
あやふやな気持ちのまま、ぼんやりと頷く。
藍の称賛は、酷く居心地が悪く響く。真白にあるのはどんな立場であれ、相手に不快に思われない方が物事を円滑に進められる可能性が高い――――という経験から成る漠然とした理解だけだからだ。だから、依頼を断らない。そんな自分に、“優しい”という言葉は酷く他人行儀だ。
「父上如何されました？」
「はい？」
「随分難しい顔をしていらっしゃるので…」
「あ、いえ…すいません。次は、そうしないように気を付けます」
心許無いばかりの気持ちではあるが、娘に不快な思いをさせるのは本意ではない。
だが、謝罪の言葉を告げた途端、藍は弾かれたように顔を上げる。怒ったような、それ以上に傷付いたような歪め方をした表情。すぐに視線を逸らす。
「もう、だからそういうの！駄目です！」
「駄目…ですか？」
小さく切り取られた空を見ながらずっと考えていた。
外に出る事。誰かと共に居る事。
ほんの少しの間でも、それはきっと幸せなのだろうと思い描いていた。それなのに、いざ人に向き合うと不安感だけが募る気がする。暗闇に囚われる。それは嫌だ。あの場所に戻るのは怖い。だから、自分はきちんと出来ていなければならない。不自然であってはいけない。人間らしく。
――――父親らしく。
それなのに――――矢張り自分には娘にどう接していいのかも分からないのだ。
「跼天蹐地（きょくてんせきち）」了
跼天蹐地（きょくてんせきち）：
肩身を狭くして暮らすことの例え。酷く恐れて身の置き場の無い事。
天は高いにもかかわらず背をかがめ、地は厚いのにそっと抜き足をするという意味。