昔の影は
―――――黙れ。
炎の迷宮の最奥に現れた八九寺家の宿敵・朱点童子。呼吸をするだけで胸の奥が焼けるような場所にも拘らず、忌々しいほどに甘く涼やかな声を遮った、渦巻く煙のように漏れ出る憤り。それが友兄さんの口から発せられたものだと、咄嗟には気付けなかった。
「何か悪い事を言ったのかい？ボクは同情してあげただけじゃないか。馬鹿な親を持つと大変だってネ」
「黙れ！煩い！いい加減に黙れ！」
ざり、と地面を踏み締める足。少し古びたツブテ吐きを構える腕。それら全てが憤怒で震えるのが分かった。何時もは友兄友兄と彼にべったり引っ付いている潤ですら後退る程に殺気を帯びた様子。しかし朱点童子は心臓を握り締めるようなひやりとした笑みを崩さぬままに、そんなに怒らなくても良いじゃないか、怖いなァ、と嘲った。
「そういえば、少し前にここで焼け死んだ間抜けな男と女がいたよねえ？で――――一つ質問なんだけれどサァ」
「あの間抜けの、どっちが君の親なんだい？」
その刹那、炎が唸る迷宮の、陽炎の様に揺らめく空気の中、何時も穏やかに笑って、どんな事があっても決して怒りを表したりはしない春の花の色をした優しい瞳が、憎悪と侮蔑に照らされるのを見た。
友兄さんの体が飛び出す。拳法家の私ですら近すぎると感じる距離まで宿敵に接近した彼は、僅かの躊躇もなく引き金を引いた。
銃声。
広範囲に礫を撒き散らす散弾銃の砲撃を至近距離で受けた身体がバラバラに弾け飛ぶ。皮膚が破れ、炎に焙られた血と肉がじゅっと音を立てて蒸発する。骨の結合は出鱈目に崩れ、内臓諸共に霧散した。それでも何故か、笑いだけが消えずに洞窟の中を木霊する。アハハハ。選ばれなかった。親が選んだのは子供じゃなかった。可哀想に。アハハハ。君は。
捨てられたんだ。役立たずだ。邪魔なんだ。だから、だから、だから、君はァ！
――――見捨てられたんだ！
銃声。哄笑。銃声。哄笑。銃声。
焼けた地面の上に赤い汚れが散り、それすら火に舐められ濁った影となる。原型を留めない無数の肉片が踏みつけられ、ぐちゃりと湿った音を立てた。かつて神々に封じられていた頃と違い、触れられる体こそあったようだが、朱点そのものではなかったのだろう。どのような術かは分からないが、その辺の鬼に自分の姿を投影させていたのだ。
もうあの顔を逆様に撫でられるような不快な笑い声は木霊しない。銃声も止み、だらりと下がった銃口からは白煙が立ち上るだけだ。
それなのに――――。
…違う。
「違う…絶対に違う。そうじゃない。父上は。僕は…。そうじゃない…、僕は、そうじゃない…そんなんじゃない…」
燃え盛る炎の揺らめきの間を縫うように聞こえてくる細い糸のように掠れた声の方が、ずっと耳に痛かった。
ともにいさん。
呼びかけた筈の声が、張り付いたように喉に留まっている。それでも彼は弾かれた様に私達の方へと振り向いた。ごめん、大丈夫だよ。それは、春の日差しの穏やかさ。柔らかく、優しい声。
「ごめんね。潤くん、真心ちゃん」
先に進もうか。
その頬には先程の血肉がこびり付いたまま―――――それでも、彼は、何時も通りだった。あの激高は幻だったかのように。少しだけ目を伏せて、その唇の端にほんの少しだけ笑みを乗せた――――何時も通りの、友兄さん。
炎が轟々と煮えたぎるような音を立てている。頬を伝い滴り落ちる汗が、今更ながらにうっとおしかった。
「昔の影は」了