星か河辺の蛍かも
死人の乾いて白濁した目が中空を見据えていた。
薄汚れた道の上を、半分固まったような血が広がっていき、地面と僕の服の裾を赤黒く染めて行く。
――――畜生。
父上の、最後の言葉が頭から離れない。奥歯を噛み砕く程の後悔。ああ、如何して僕は、父上の命令に素直に従ったのだ。"下がって身を守っていろ"なんて――――初陣の七くんはまだしも、僕なら。確かに復活させたご先祖の奥義もアイツにはほとんど通らなかったけれど。だけど、もっと強く強く弓を引いて―――――。
「鷹比等」
声をかけられた方向に、ぎこちなく首を動かすと、そこには雪さんが佇んでいた。相変わらず感情に乏しい顔だが、目の端が少し赤味を帯びている。
「…雪さん」
風呂が焚けた。
言われて気付く。父を担いで帰宅した、僕の服は…体全体が血塗れだ。そのままにしていたから、半ば麻痺してしまっていたけれど。臓物の、生臭さが漂っている。これは確かに風呂に入らなければならない。頭では分かっているのだが――――体が、動かない。
「大丈夫か？…いや、すまない。詮無い事を」
「いえ…如何なんでしょうね？」
正直、良く分かっていません。
悲しいという気持ちであれば、長広さん―――――雪さんの御父上が亡くなった時の方が大きかったような気がする。だけど、何も感じてない訳ではなくて、ただ、それを表現しようとすると、どんな言葉であっても身の内をすり抜けて行ってしまう。胸に大きな穴が開いたら、こんな感覚になるだろうか。
「お風呂、先にどうぞ」
「私は後でいい」
首を横に振ると、僕の酷い格好を全く気にせす、隣に腰を下ろす。彼女は体を拭き清めたのだろう。透明な水の気配と共に、矢張りほんの少し、血の臭いがした。思えば雪さんからは何時もそんな匂いがする。だけど不思議と、嫌じゃない。僕にまとわりついた死臭がじっとりと重く沈んで消えないのに、雪さんがまとう薫りは、滑らかにするりと鼻腔を通り抜けていくようだ。
だから――――彼女の温もりに縋りたいと、思ってしまうのだろうか。如何か如何か。傍にいて欲しいと、願ってしまうのだろうか。
「雪さん…今を…これからを…、僕と一緒にいてくれますか？」
「無理だ」
一切の迷いなく、速攻で否定された。…幻聴かな？
「ええっと…ここは一緒にいると、慰める場面なのでは…」
「しかし年長者である私は、先に寿命を迎える可能性が高いだろう？」
「いや…まあ…ええ、まあ…そうなんですけれどね」
正論に頷いてしまう。頷く以外何が出来ただろう。
雪さんは本当に他者を無条件に甘やかさない（それ以上に自分に厳しい人だけれど）。一方で不思議と、彼女の容赦ない言葉に安堵している自分もいる。我ながら捻じれた心持ちだが、優しくして欲しいと思う反面、べたべたと甘やかされたら、きっと二度と自力で立ち直れないと、そんな風に感じたからだ。
その僕の手を、何時の間にか雪さんが握っていた。怪我をしているんじゃないか？と問いかけられる。言われてみればそうかもしれない。親指の付け根辺りが特に痛い。多分矢を射る時に切れたのだろう。恨み足を相手取っていた時は体幹を気にして撃てる程に冷静ではなかったし――――そもそもあの奥義は体を酷使するから、掌が裂けたりするのも珍しくないのだ。反応の薄さに僅かに顔を顰めた雪さんは、手巾で僕の手を丁寧に拭うと、
「お前は家族が大切か？」
「ええ、まあ…そうですね。僕の使えるあらゆる手段を使ってでも、雪さんや七くんを守りたいです」
否、願望では駄目だ。守らなければならない。父上の様に死なせてしまうのは――――駄目だ。駄目だ。絶対に駄目だ。父上の体は半分以上潰れていた。白骨城の床を真っ赤に染める程に血が飛び散っていた。そんなの駄目に決まっている。その為に、僕は、どんな事でもしなければならない。きっと出来る。その為の力だ。自分の身を守っている場合じゃない。掌の肉が抉れ肩の骨が外れ腕の筋が切れ――――それでも、皆を、家族を、守らなければならないのだ。
「鷹比等――――それはいけない」
「はい？」
「その決意は、お前の寿命を縮める」
「ああ…まあ、そうですね。そうかもしれません。でも、僕はそれでいいです。それでも、皆を、」
「鷹比等」
僕の言葉を遮る、その間にも、傷が癒えていくのが分かる。雪さんの回復術は見事だ。それこそ命の危機にさらされるような大怪我でさえなければ、殆ど跡も残さず治してしまう。
「お前の気持ちは嬉しい。だが、私達の――――私の為を思うのならば尚更、寿命以外の死に方を、決してするな。己の命を差し出す様な戦い方をするな。私と七花を守るように、自分を守ってくれ。お前が足利さんの方に唐突に命を絶たれでもしたら――――私は悲しいんだ。頼む、心に刻んでくれ。家族という曖昧なものじゃない。"私が"とても、悲しいんだ」
「………」
お前がそれを約束してくれるなら、同様に、私も約束しよう。
「私は決して戦場で命を落とさない。だから私が寿命を迎える、その時までなら、お前とずっと一緒だ。そういう約束なら、きっと出来る」
咄嗟に言葉が浮かばなかった。それどころか胸を押されたように、息まで止まりそうになる。鼻の奥がつん、となって、熱くなった目を伏せた。
甘やかさない。厳しい。だけど、誠実だ。誠実で、生真面目で、とても――――優しい。
雪さんって――――そういう人だ。ずっと具合が悪かった長広さんに心配をかけたくない、ただそれだけの為に無表情を貫くくらい、それが習い性になるくらい、優しい人なのだ。分かっていた。だからこそ、僕はこの人と、一緒に居たいと願うのだろう。
「僕、雪さんが凄く好きです」
「それは嬉しいな。私も鷹比等が好きだから」
ほんの少し唇を綻ばせた他は、今までと全く同じ調子で、淡々と告げられた。これも、告白――――なんだろうか。何ともあっさりしたものだ。
「いや、お前も大概あっさりした物言いだぞ」
「そうでしたかね？」
首を傾げる僕の様子の何がおかしかったのか、雪さんは声をあげて笑った。珍しい。そして可愛い。
見上げた夜空は何時の間にか雲が千切れながら走り、隙間から星が見え隠れしている。星明りに照らされた地面は仄かに明るく、歩くのに不自由を感じない程だ。
案外どんな時であっても―――――光は見えるものなのだろう。
「星か河辺の蛍かも」了