散らぬ影さえ
「――――お父様」
殺風景な部屋の中。体を支える様に片頬と片耳を小さな机にぺたりとつけて蹲っています。
「如何した…ああ、いや――――うん、さっきは…ご免な。驚かせて…」
「い、いえ…あの、私、」
思わず声を掛けてしまいましたが、―――――一体何を伝えるつもりだったのだろうと言葉に詰まります。
でも、気付いてしまいました。お父様の左手中指の付け根の、刃を突き立てた事がはっきりと分かる無数の傷に気付いてしまいました。
「あの、私―――――」
鋼矢様の言葉が、蘇ります。
あの人の足はもうほとんど動かない。だけど、それでも。這ってでも刃物を取りに行って、傷つけ続けた。
あいつの体が、死んだ時と同じ位――――それ以上に呆気なく朽ちるまで。
何度も何度も。何度も何度も何度も。執拗に――――傷つけて、指を――――当主の指輪ごと、指を、切り落とそうと、したんだ。
「け、怪我…痛く、ないですか」
見えない衝撃に打たれたかのように唇を結んだ後のやつれた顔に浮かぶのは、穏やかで、悲し気な微笑でした。
「あの時も――――そう言ってくれたな」
「？」
「最初に、オレを見て。真ん丸にした目を潤ませて。当主が―――――地上で迎える親が此処までボロボロになっていたら、それは怖いし驚くのも無理はないけれど」
確かに――――驚きました。怖くなかったと言えば、それは嘘になってしまうかもしれません。だけど。
「だ、だけど。今はそれだけじゃなくて――――治したいです。お父様の、傷を、私…きっと、お姉様…な、なのか、お姉様だったら――――そう、思う筈だから」
「―――――」
私の言葉を。"なのか"という名前を聞いたお父様の顔から感情が消えました。しん、と冷えた夕刻の空気の中、取り返しのつかない過ちを犯してしまった居心地の悪さが積もっていきます。ややあって、深い、静かな吐息と共に、聞いたのか、と小さく呟きました。鋼矢様に、と告げると、
「そうか――――」
「あっ、あの！私、もっと難しい術を、覚えます！そうしたら、お父様の怪我を――――傷を、なのか、お、お姉様の、代わりに―――――治して、」
「…なのかは、多分回復術は苦手だったんじゃないかな。"鋼矢や鵬喜ちゃんみたいに出来ない"って…不満そうだった」
「そ、そうなんですか？じ、実は私も術は余り得意では…ない、と…」
治したいと言った舌の根も乾かない内に、一体何を口走っているのか。勿論術が不得意なのは（恥ずかしながら）嘘ではないのですが。この時の私の気持ちはきっと、少しでも、お父様の記憶の中の"なのかお姉様"に近付けないだろうかという焦りだったのではないかと思うのです。
「だっ、だけど…だけど私、お姉様みたいに――――」
静脈が浮き出る程に痩せた手が、まくし立てる私の頬に優しく触れるのを感じました。
「オレは、あの時――――嬉しかったよ」
「？」
何も知らずに、すみか、お前が。ただ、純粋に、オレの怪我を気遣ってくれたのが、嬉しかったんだ。
「それだけでもう十分だ。これ以上は不相応だ。許されなくていい。許されない。許されようとは思わない」
だから。すみか。
「…なのかにならなくて良いんだ」
お父様は、消え入りそうな声と共に、瞼を閉じてしまいました。まさか具合が悪いのでは。鋼矢様やイツ花さんを呼んだ方が良いのだろうかと気を揉みましたが、上下する胸の動きは規則的で、不自然な所はありません。寝ているだけ―――――の様です。ならば、私だけでも大丈夫でしょう。
せめて、意識を取り戻すまでは隣に居たいと思ったのです。そうでもしなければ、取り戻せない過去を悼み続け、自分を罰する為だけにその面影を追い続けるお父様が余りにも可哀想でした。
ですが、私は、目覚めた時に、何とお父様に声を掛ければいいのでしょうか。もしかしたら、傍に、居ない方が良いのでしょうか。
なのか、お姉様だったら―――――。
ぱたり。
瞬きと共に透明な水滴が一粒弾き出されました。一度涙が零れてしまうと、もう止めどがありませんでした。
会った事のない。それどころか私は顔も知らない、姉。だけど、きっと。その人なら。
誰もが私に優しい。お父様も、鋼矢様も、鵬喜様も、とても私に優しいのです。それなのに。
矢張り、私では、駄目なのだ。
「散らぬ影さえ」了