我を忘れぬものならば
しんとした昼下がりの弱い日差しの中に、浮き上がる紅梅の花弁。
漂う香り諸共突き刺すように、練習用の槍を振るい続ける少女の姿。少しばかり不満げな様子で槍を一度抱え直すと、癖の強い髪をクルクルと指に絡ませながら、梅の木の根元に置いた指南書を拾い上げる。思えばこの子は、槍を使うと決まった直後から熱心に槍の指南書に目を通していた。それでも。書いてある文字を覚える程に読み込み、理屈が頭の中に入っても、それを実践できるかどうかはまた別の問題なのだろう。視線が忙しなく上下に動き、その度に眉間の皺が深くなっていくのが面白い。
「…すみか」
「お父様！」
部屋の中から、小さく声を掛けただけだ。だからもしかしたら聞こえないかもしれないと思ったが、そんな心配は杞憂だった。弾かれたように顔を上げたかと思うと、一息にここまで駆け込んでくる。早い。放り投げられた草鞋が宙を舞って地に落ちるよりも早かった。もしかしたら、こと身体能力に関してはすみかは鋼矢や鵬喜よりも伸びるんじゃないだろうか。
「あの…お体の具合は…？無理を、しないで下さい。寝ていた方が、良くないですか？イツ花さんを呼んできましょうか？」
「いや…そんなに心配しなくても大丈夫…だから」
実際、最近完成したという新薬のお陰だろうか。支えは必要ではあるが、比較的長い時間上体を起こしていられるようになった。もう少し服用を続ければ、杖を使って歩く位の体力は戻るかもしれない。
指導するにしても、多少距離は近い方が良い筈だ。確か雪姉ちゃんが一時療養していた時に使っていたものがあった筈だ。イツ花さんに頼んで探してもらおうか――――。
「本当ですか？！お父様が、教えてくれるんですか？」
生き生きとした顔に浮かぶ喜び。
「…槍と薙刀では、少し勝手は違うかもしれないけれど…それでも、構わないのなら…」
「勿論です！あっ…あの、具合が良い時だけで構わないので…。お父様、どうぞよろしくお願い――――」
―――――父様。
笛の様に綺麗に澄んだ声を遮る、ぽとりと、雫の様に落ちる言葉。
全身を跳ね上げる鼓動と共に、世界が紅梅の色に、否、もっと赤い。暗く、赤く染まる。血煙で出来たような、べっとりと肌に粘りつく嫌な霧。これは、と自問する前に、黒い人影が視界を過ぎる。白濁した瞳。開ききった瞳孔。唇の奥の底なしの暗闇。
「な、の」
如何して貴方は。
柔らかなお湯のような温かさがどろりと冷たく濁る。びちゃりと音を立てながら広がる血。
如何して。
如何して。
平穏がボロボロと崩れていく――――後に残るのは、汚泥の中で這いずる痛み。或いはあの時の――――全てを失ったあの時の傷。如何して。許さない許せない。如何して如何して。貴方は。
口の中から重たい声が出てくるのを抑えられない。肩が揺れ、震え、口の中から溢れようとする声を抑えようと歯と歯を噛み締めた。それでもその隙間からひゅうひゅうと漏れ出る音。腹の底から一気に喉元まで突き上げてくる、この世のものとは思えない絶叫。
如何して、貴方は、生きているの？
そうだ。
許される筈が――−−、無い。
オレは、決して許されない。
「我を忘れぬものならば」了