絶えなば絶えね長らえば
――――どうしてあなたは。
最初は、ただ、ぼんやりとした黒い塊の様に見えた。
黒い影――――人影――――。少女。ただし、これ以上目を凝らすと印象が散漫になるようで、はっきりとした顔の形は捉えられない。それでもその目が白濁し、瞳孔が開ききっているのだけは分かった。亡者だ。どくりと心臓が嫌な音を立てる。唇が開く。口の中には歯も舌もない。ただ底なしの暗闇があるだけだ。
それなのに、はっきりと聞こえた。その叱責が、オレの耳に、届いた。
如何して貴方は生きているの？
「な、」
その瞬間、彼女の正体が脳裏を打った。
なのか。
オレの娘。
オレが――――。
ぴちゃり、と音を立て波紋を広げながらじわじわと広がる液体が爪先を濡らす。どす黒く彩られたそれは、血だった。流血の根源は考えるまでもなく、あの黒い影となったなのかに違いない。悪寒と共に、内臓が絞られる心地がする。
――――オレが助けられなかったオレの娘。
如何して。あの子はたった二ヶ月だったのに。二年と生きられないのに。それなのに、たった二ヶ月で。如何して。オレが助かったのに、あの子が死ななければならなかったんだ。如何して。如何して。如何して。
如何して。
如何して。
貴方が。
――――生きているの？
自問と叱責が交じり合う。
繰り返される呪詛に似た響きは、まるで暴風に浚われる木々の騒めきだった。耳の中でわんわんと木霊している。
ああ、そうだ。オレが死んでいれば良かったんだ。
単なる感傷じゃない。父ちゃんが言っていたのを覚えている。父ちゃんに指輪を渡した当主はかつて、そうやって命を救われたのだと――――内臓が抉れ骨が露出する程の傷を全身に負っても生を繋いだそうだ。きっとこの指輪には、当主を継承するその瞬間に、継承者の命を確実につなぎとめる力があるのだろう。だから。オレが。如何して。貴方が。如何して如何して如何して。オレが。生きて。貴方が。如何して。
オレが、死んでいれば――――なのかを助けることが出来たのに。
あの時も、オレはあの子を助ける事も――――傍に行く事も出来なかった。
倒れたなのかの元へ駆け寄る前に、黒ズズ大将に鳩尾を強打され、膝から力が抜けぐらりと崩れ落ちる。金気臭い味が舌の奥に広がって、ごぼりと口から鮮血が溢れた。更に追い打ち。降りぬかれた金棒に膝が砕ける音が――――。
「――――っ」
半分欠けた視界が、見慣れた空間を映す。八九寺の、オレの部屋。ちくりと瞳を指す光はまだまだ冷たいが、それでも微かに淡く、春の気配を感じさせる柔らかな空気が漂い始めているのが分かる。
―――――まだ、死んでいない。
その自覚にふと息が詰まる感覚に襲われるや、次の瞬間にはぞっとするような虚脱感と共に吐き気がこみ上げてきた。
食事をした記憶はほとんどない。だから出てくるのは黄色っぽい胃液だけだ。指の間から、ぼたぼたと垂れ落ちてくる。肉の削げ落ちた掌。それでも、オレは、まだ――――。
まだ――――。
「…如何して」
これまでの八九寺家の男子には、１歳９ヶ月を超えて生きた者はいない。女性でもその一線を越える事は稀なようだ。父ちゃんも雪姉ちゃんもそうだった。鷹兄ちゃんも随分具合が悪くて、漢方を食事と一緒くたにして飲み込んでいた位だったから、きっと長くはなかっただろう。だからオレも、皆と同じ所まで歳を重ねれば終わりだと思っていた。雪解けを前に――――春の訪れを待たずに、この体から魂が離れるものだと――――。だから。考えるのを、止めて。もうこれでいいと。お終いだからと。
それなのに。
あの時砕かれた足は矢張り動かないが、心臓が動く感覚。血が流れる音が分かる。生きている。この体は、１歳１０ヶ月の歳月を刻み込んでも尚――――。
現実が真っ暗な闇に侵食される。その中に更に暗く沈み込んでいる影。
如何して貴方は――――生きているの？
「ああああああ！」
喉を締め付けるように漏れ出る声は、意味をなす事はなく、ただ悲鳴となって迸るだけだった。
分からない。
オレには、何も――――分からないんだ。
「絶えなば絶えね長らえば」了