まだ宵ながら
生暖かい風を切り裂く、鋭い囀りが耳の傍を駆け抜けた気がした。
四方に飛び散った血が蝋燭に降り注ぐのを見て、腹部に鍵爪の一撃を受けたのだと漸く悟る。胸を突く鋭い衝撃に息が詰まり、ぐらりと視界が歪んだ。咄嗟に大筒に爪を立てて膝をつく。抱えきれず腕から滑り落ちた床尾がガツン、と鈍い音を立てた。痛みよりも衝撃で気が遠くなりそうだ。肉が深く抉れた、その振動が何時までも止まらない。臓腑をかき回されているようで、悪寒が体にじんわりと広がっていく――――が、意識を飛ばす程ではない。まだ耐えられる、おれは。しかし。
優美に見えた背中は歪み、眦は裂け、飢えた野獣のような凶暴な意思が閃いて見える。
片羽ノお業。
双翼院の奥に陣取る天女の形をした鬼は、術が主体の攻撃を行うのではなかったのか。こんな強力な攻撃をしてくる想定と対策はしていなかった。姿を変えるという記録はあった。術の威力が増すとあった。だが、姿を変えた後の行動の変化は、如何だっただろう。黄川人が解放されて後に付加されたものか。単に見落としていたのか。失態だ。否、考えるのは後だ。あれは危険だ。特に鵬喜ちゃんはおれよりも――――下手をしたらすみかちゃんよりも物理的な攻撃に耐性が無い。兎に角全員の守りの力を向上させる。石猿。詠唱と共に、ぼたりと血が滴り落ちる。
「鋼矢様！」
「鋼矢くん！」
実戦経験の浅いすみかちゃんは勿論だが、それ以上に鵬喜ちゃんの動揺が酷い。こうやくん。まるで自分が刺されでもしたかのような悲痛な声。血の気が失せた顔。ぐらりと体が傾げ、今にも崩れ落ちそうだ。取り落としそうな刀の柄ごと、その掌を握り締める。
「おれは大丈夫だ。大丈夫だから…この位なら、治るから。だから、落ち着いて」
「だ、だけど。だけど…！」
泣いてはいない。それでも震えを帯びた声は、十分に涙に濡れているように響く。只々、おれの身を、案じてくれているのだ。
ざわりと空気が動く。埃を巻き上げながら風が吹き抜け、翼が燃え盛る炎を巻き散らかす。その合間を縫うように、すみかちゃんが跳んだ。槍の穂先が唸る。鈍い音が響く。攻撃が受け止められ、弾き返されたのだ。悔し気に唇を噛むのが見て取れる。脇腹を狙った鍵爪を避け、距離を取れただけでも大したものだが、矢張り今のすみかちゃんでは、一歩及ばないのだ。
だが、元より攻撃の中核は彼女ではない。そしておれでもない。
相手が腕を振り上げたその瞬間、一息に踏み込み、斬り上げられた刃。全身を機敏に操る事で可能とする、太刀行きの鋭さと速さ。お業はその一太刀で、変化する程に追い詰めれたのだ。
――――如何してだろうか。
元々、自分より他者の怪我に強く痛みを覚えるような、戦場が向かない優しい子なのに。如何して、この子には抜きん出た才能があるのだろう。なのかが嫉妬し、我を忘れさせる程に激高させた――――戦いに特化した才能があるのだろう。
「鵬喜ちゃん。君の、力が、必要だ。皆を――――おれ達を助けられるその力が必要なんだ」
「助け…」
グラグラと揺れる金色の瞳の焦点が定まっていく。しゃがみ込みそうになる足を、踏ん張っているのが分かる。
最後の――――一押し。彼女を縛り、動かす、最大の原動力。
鷹比等さんが。
ひくりと、鵬喜ちゃんの喉が鳴るのが分かった。
「鷹比等さんが、自分の命と引き換えに守った、君は――――あんな鬼程度、切り裂けるようにならないと、鵬喜ちゃん」
「そ…そう、だよね…。うん、そうだよね」
わたし――――頑張らなくちゃ。お父さんみたいに、ならなくちゃ。
祈るように、縋るように。許しを請うように。一度ぎゅっと目を瞑ると、深く、深く息を吸い込む。涙が一筋、頬を流れ、美剣白鳳が、彼女の心に応える様に稲光を放つ。それが悲鳴の様に思えたのは、おれに彼女を傷付けた自覚があるからだろう。例え本人にその意識がなくとも。戦いを有利に進めるという、打算の為にその傷を抉ったからだろう。
生暖かく揺らめく空気の中、苛立ちで、頭の芯がチリチリと音を立てるようだった。
「まだ宵ながら」了