露も涙もとどまらず
秋の夕暮れ。遠くの山が茜色に染まっている。
静かな光景だった。なのに、おれ達が負った深い傷の所為だろうか。あの親王鎮魂墓での出来事――――無残で無意味で余りにも呆気なく訪れた死の痛みと苦しみに藻掻いているような気がした。
「…鵬喜ちゃん」
西日が差し込み、明るい筈の部屋で、彼女の周りだけが暗い。周囲の光を全て吸い込んでしまったかのように、とても暗かった。
鵬喜ちゃんは目を覚まして以来、ずっと、膝を抱えて塞ぎ込んでいる。より正確に言えば、なのかが亡くなった後から――――だ。鷹比等さんが死んだと知らされた――――教えたのはおれだが――――時の様に、悲しみを表現する事すら出来ずに、ただ、小さく蹲っている。思えば自分の身代わりに父親が命を落としたというだけでも身を引き裂かれる痛みを伴うものだ。それなのに、それだけで終わらず、自分よりも年下で、ずっと一緒に過ごしてきた仲の良い女の子が死んでしまったのだ。
自分は助かったのに―――――。
――――なのかは、助からなかったのだ。
同じく死を経験し、それでも助かった。自分だけが助かった。助かってしまった。父親の命を犠牲にして、助かってしまった。その現実と罪悪感に、ずっと、苦しんでいる。
そしてそれは七花さんも同じだ。
ざっくりと引き裂かれた顔と左上半身。二度と動く事はない程に砕かれた足。それこそ生きているのが不思議な程の重傷を負い、それでも死の淵のギリギリから引き返して来た当代当主は、真っ先になのかの安否を――――自分よりも早く、鬼の攻撃で倒れた娘の安否を知りたがった。
そしてそれに応えたのは、確かになのか、だった筈なのに。
父様、大丈夫？
な…のか…？
父様、もう、大丈夫だよね？死なないよね？
…うん。うん、オレは――――。それよりなのか…なのか…良かった、無事、だったんだ…。
もう、大丈夫…だよね？
あの時、くどい程に七花さんの体調を気にするなのかの血の気の失せた顔に、唇が妙にかさついていたのに、土気色の爪に気付いていれば――――あいつが、父親の安否を確認した直後に倒れるのを防ぐ事が出来たのだろうか。まるで、七花さんを死なせない為だけに自らの命を引き延ばしていたとでも言うように、呆気なく死んでしまう事を阻止することが出来たのだろうか。
虚ろで、まるで眼窩に硝子玉が嵌っているかのような七花さんの目。誰の、どんな声にも反応しないのに、真紅の爪だけは――――なのかが使った武器だけは決して手放そうとしない様子を、無理矢理意識の外に押し出す。
まずは鵬喜ちゃんだ。七花さんには何よりも時間が必要だし――――彼女に届く言葉は推測が立っている。何度か名前を呼んだ後、おれは一度息を吸い込み、努めて静かに、こう言った。
「助けてくれ」
ぴくりと肩が揺れ、鵬喜ちゃんの顔がゆっくりと持ち上がる。
「助け…る？」
これが反魂の儀の影響なのだろうか。鷹比等さんを思わせる浅黒く変わった肌は張りを失い、長く顔を伏せていた所為か、服の皺の後が頬についていた。それでも上げた。彼女は顔を上げたのだ。他者の言葉に――――助けを求める声に反応する気力が残っている――――ならば、おれの目論見は達成出来る筈だ。
「なのかの母神と、七花さんをもう一度会わせる。その為に―――――奉納点を稼ぐ。だから討伐に行く。だけどおれ一人じゃ流石に手が足りない。鵬喜ちゃんが居ないと駄目なんだ」
「だけど、如何して…もう一度？」
もしも、奉納点が今の時点で足りているのではないかと問われたら返答に窮していた所だが（実際イツ花さんに、神格が上昇したらしいなのかの母神――――愛宕屋モミジさまの元に赴くにはどの位奉納点を貯める必要があるのかと尋ねてみたら、ギリギリですけれど足りてますよという回答だったのだ。此方の持ち分がすっからかんになると、万が一儀式に関する事故があった時に対処が難しいんで、もう一寸上乗せは欲しいですけれどネ、とも言っていたけれど）、鵬喜ちゃんは其処まで考えが至らなかったらしい。むしろその後、七花さんが再度交神するという所が気になったようだ。素直な彼女が、重箱の隅を楊枝でほじくるような疑問を呈する筈がないと想定はしていたが、内心ほっと胸をなでおろす。
「なのかが…最後に言ったんだ。聞いたのはおれだけだけれど――――」
「…なのかちゃん、何て言って…いたの？」
父様。
鋼矢。
鵬喜ちゃん。
鷹比等さん。
ご免。ご免。私の所為で――――皆、危ない目に、痛い―――。嫌――――。あわせて。だけど。許し――――許してくれなくても。
震える手が一瞬だけ伸ばされて、すぐに燃え尽きたように何も掴まずに落ちてしまった。
あの時おれは、如何してなのかの手を、取ってやれなかったのだろう。そんな痛みが胸を過ぎる。
だけど――――それでも。私はこの家に――――許して欲しい。もう一度、この家に生まれて――――。父様。痛い、のは―――。だけど、もう一度、生まれて――――きたい。
もう一度――――この家に、生まれて――――。
意識が混濁する中。傷の痛みに苦しみながら。だからこそ見栄も意地もない。最後の最後に胸を突いて出た願い。
鵬喜ちゃんが、すうっと息を呑む。苦痛を悲哀の入り混じった表情。それでも、おれの言葉の続きを待っている。
「なのかは生まれ変わってくるんだ。同じ両親なら、きっと――――そうすれば、七花さんだって救われる。だから――――力を貸してくれ。助けてくれないか」
「なのかちゃんが、生まれ変わって。そうしたら、七花さん…が、救われる…？」
金色の中に、かつての彼女の彩りの面影の様に、柔らかな新緑の虹彩が散らばる瞳。涙と、隈の跡がくっきりと残る両眼に、力が戻り始める手ごたえがあった。
「そうだ…家族の為…家族の為に、何かしなければならないって、声が…あれ、きっとお父さんだ。家族の為。なのかちゃんの為に。七花さんの為に。わたし、何か出来る？皆を助けられるの？」
「うん、鵬喜ちゃんの力が必要なんだ。きっと鷹比等さんも、」
…おれが最期を看取ったのは、なのかだけじゃない。
鋼矢くん。これから大変なのに、申し訳ないんですけれど、ぼくの言葉が届いていないようだったら、代わりに伝えておいてくれませんか。
鷹比等さん。だけどおれはこのまま鵬喜ちゃんに蹲って過ごせとは言えないんです。"誰かの為"という動機があれば、其処に縋れば、鵬喜ちゃんはもう一度歩き出せるんです。
だから貴方のその、願いを――――。
家族の為に戦い続けて――――そして死ぬ僕が言う事じゃないですけれどね。だけど、それでも。僕は鵬喜に大きな怪我もなく、病もせず…ただ――――丈夫でさえいてくれれば、それで十分だと。それだけを、望んでいますから…って。
「そうだ。頑張ろう、鵬喜ちゃん。鷹比等さんも――――」
貴方のその、願いを――――握り潰します。
「きっと、それを望んでいるから」
「そうだよね。お父さん、何時も皆の為に戦っていた…。だったら…わたしも。わたし、頑張るね。負けないくらい、頑張るからね、お父さん。頑張ろうね、鋼矢くん」
徐々に早く、上ずったものになっていく口調。それでいて、今にも泣きそうな張りつめた自分の顔に、鵬喜ちゃんは気付いていない。
だけど、きっと、これでいい。これが、この場における、最適解なのだから。
「露も涙もとどまらず」了