人の音せぬ暁に
――――血塗れだった。
血塗れで、土の上に寝かされていた。胸から腹、腰に至るまでざっくりと割れている。不器用に傷口を縛り上げた布は元の色が分からない程にどす黒く染まり、紅色の虫が張り付いているようにも見えた。
赤く汚れた手が動く。刀を――――彼の愛刀・心渡を握ったまま。違う。柄と掌を晒しで結び付けているのだ。その指先が裂傷と火傷の痕で不自然に歪んでいた。ぼたり。血が滴る。或いはそれは焼け焦げた肉片であったのか。
「お…お父さん！」
その場に縫い止められたかのように動けない私を押しのけるように、摘菜ちゃんが飛び出して柄諸共掌を握り締める。口元が微かに動いたのが分かった。どんな言葉を紡いだのか、ぶんぶんと激しく横に振られる首。緋色の髪がばさりと広がる。揺れ動く空気にまでも染みる、焦げ付いた生臭さに吐きそうになった。足がよろめく。やっとの思いで傍らに膝を付き、喉に張り付いた声を引き剥がす様にその名を呼ぶ。ずっと共に戦ってきた。何度も呼んだ筈の名前が、ひりつく様に響く。
じゅん。潤。
「…潤！」
微かに動く首。その顔の半分近く――――頭から耳の部分にかけてが、焼け爛れている。それなのに、残り半分は血飛沫が浮き上がって見える程に白い。色を失った唇が、小さく震えた。
まごころ―――。
「お前に、話、――――帰…から――――て、」
「そんなの…そんなの良いから！」
瞼を焼くような熱い涙が、私の目から流れ出る。頭の中で色々な感情が溢れ、何が何だか分からなくなった。潤はもう助からない。如何して。確かに私達の気持ちは全くかみ合っていなかった。私は潤が、あれだけ慕っていた友兄さんの事を。彼の選択を受け入れた事が不満だったし、彼は彼で、独りを選んだ友兄さんの所に私が無理にでも赴こうとしている事を。交神相手にあの人を指名した事にはっきりと反意を示していた。だけど。それでも潤は言ったのだ。"来月にはお前の子供が来るのか――――。指導、してやらねえとな"って。そうして討伐支度をして、出かけて行ったのだ。それはほんの十数日前の事なのに。それなのに。
死んでしまう。潤が、死んでしまう。
目の前の現実が涙の中で歪みながら破裂する。その先に居たのは、思い浮かべたのは、何時も私や潤の半歩前を歩いていた、すっきりと背の高い男性の後ろ姿だった。
今は氏神として天に居る人。大権現様。友兄さん。友兄さん。私達がこんな風に終わってしまうなんて嫌だ。嫌だよ、友兄さん。お願い助けて。
「友兄さんなら――――友兄さんならきっと！潤と一緒に、居てくれるよ！ねえ、そうでしょう？」
苦し気に――――しかし即座に、潤は駄目だ、と私の提案を否定した。何で。何でこの期に及んで私達は平行線になってしまうのだ。
「これ以上、友兄の重荷に――――」
「駄目じゃない！重荷じゃない！ずっと一緒だったんだから、これからも変わらずに居ればいいんだよ！」
「…変わらないなんて…、それは――――無、」
「嫌だ！変わらない！だって友兄さんは私に会ってくれた！だから私も、友兄さんも！潤も！一緒なの！ずっと変わらないの！ずっと、ずっとなんだよ！」
「は…」
顔の無事な方が不器用に歪んだ。勝手な奴。苦笑いの混じった声が耳にするりと滑り込む。自分の気持ち一つで何処までも、風みたいに駆け出しちまうお前に、こっちはついて行くのがやっとだったんだぜ。
「だけど、そういうお前だから、オレは…オレ達は、迷宮の最、奥まで――――」
瞳が朦朧と、濁っていく。深い悲しみにも似た淀みが命と共に沈んでいく。
「嫌だよ…潤、行かないで…私を置いて行かないで…！待っていて！友兄さんの所で二人で待っていてよ！お願いだから…！」
叫んで喚いて支離滅裂で。子供が駄々をこねているようだ。だけど、止まらない。涙が止まらない。止められない。涙と、血が混じって。ぽたぽた。雫が床に染みを作る。
「泣くなよ。オレは―――――むしろおめでとうって送って貰いたいぐらいの気分なんだ。やっと、今更―――――、だけど。卒業…。なあ、真心、お前も…本当は、分か…、だから――――もう…一人、で――――」
一度閉じられた唇が再び開かれる。ともにい、オレは。小さく漏れる声は、腐臭の中でも透き通るように辺りを漂った。
オレは――――別の所に行くから。
今まで、ずっと、ごめん…重荷で、苦しめて、ごめんなあ――――。
摘菜ちゃんが悲鳴を上げ、髪を振り乱しながら地面に突っ伏すのが見える。その腕には潤の掌と、心渡を抱きしめたままだ。お父さん、お父さん。だけど潤は応えない。噛み締める歯の隙間から嗚咽が零れ落ちても、何も応えない。
不意に朝を告げる鳥の声が耳を刺し貫いた。冷たい風がすうっと通り過ぎていく。
周囲を包んでいた明け方の薄い靄は去り、晴れ切った朝の日差しが部屋を明るく彩っていた。
「人の音せぬ暁に」了