春に知られぬ
矢を描き、迷宮の壁を焦がす幾千もの火花。中心が白く輝く高温の炎が鋼矢くんの、そしてわたしの、髪を、腕を、体を、足を―――全てを焼き払っていきます。
それはまるで、朱金の刃が、どろりと粘りつく闇を切り裂くような、奇妙に美しい光景でした。
「………」
強制的に迷宮から排出されたのでしょう。気付いた時には、黒々と磨き上げられた冬の空を見上げていました。時折立ち上る煙は、焼けた体が冷やされた事で作られる蒸気でしょうか。剃刀を走らせたように全身を疼痛が駆け巡ります。
「…鵬喜ちゃん」
今、円子を。
呻くような声と共に、鋼矢くんが傍らに膝を付きました。
都の女性が羨む程に白く透き通る肌は無残に焼け爛れ、水を束ねた光を内包した髪は乱雑に鋏を振り回した後の様に半分以上が焦げ落ちていました。きっとわたしも、同じような有様で――――もしかしたら、彼よりも酷い状態だったのかもしれません。
術の詠唱と共に吐き出される血が泡のように辺りを漂い、少しだけ、呼吸が楽になりました。ちらちら、ちらちら。乾いて軽い雪が舞い落ち、さらりと顔を叩き続けます。
「雪が、止んだら――――何処かに、行きたいね」
「………」
唐突で、場違いな提案に、鋼矢くんは深く、静かに息を吐き出しました。何処に？と問いかける声は、悲し気に震えて響きます。
「そういえば…餅と白雪祭り…開催するのって…今？」
「…分からないな。おれは、そういうの…興味がないから…」
「じゃあ、やっていたら、行――――」
胸の詰まりが、ぐっと喉を圧迫します。ごほりと咳き込むと、どす黒い血が吐き出されたのが分かりました。
「もういいよ…鵬喜ちゃん。もう、喋らなくていい。続きは――――家で話せばいい」
友も、すみかちゃんも待っている。鵬喜ちゃんの子供も、これから来る。
「その時に――――皆に、沢山話せばいい。祭りにも、行けばいい。これから――――これからだって、色々な事が、出来るんだから…」
「そうか…ふふっ、そ…う――――」
傷みは、ほんの束の間消えただけでした。そして再度の吐血。真っ白な大地を染める赤。甘さを帯びた腐臭。それは、もしかしたら死の臭いだったのかもしれません。何となく、分かります。わたしはもう助からない。街に戻る事も出来ない。すみかちゃん。友くん。ほんの十数日前には毎日顔を会わせていた二人に、もう二度と会えない。もうすぐあの家に来る筈の――――わたしの、子供にも、会えない。
―――――会えないんだ。
その現実に、大事なものが体からすとんと抜け落ちていくような寂しさを感じました。だけど不思議と――――怖いとは思いませんでした。わたしにとって戦場は、なのかちゃんや七花さんが血の海に沈んだ場所で、鋼矢くんが傷付く場所で。わたしの鼓動が一度は停止した場所で。底の無い穴に堕ちて行くような、暗い気持ちになる場所でした。でも、お父さんはわたしの為に命を落としたのに、辛いとか、逃げたいとか。自分勝手な事を考えてしまう自分が嫌で。だから、絶対に、刀を置く事だけはしてはいけないと思って。色々な感情が入り混じって、不安に怯えて。それなのに、あんなに苦しかったのに、もう恐ろしくはありませんでした。あの時の様に。わたしが最初に死んだ時のように。穏やかで、とても静かです。
――――ごめん。
傷みも音も。全てが雪に吸い取られてしまった平坦な静寂の中に、嘆きの声が広がりました。
「ごめん…鵬喜ちゃん…ごめん…」
おれの所為だ。
おれが最初から――――間違えていた所為だ。
鋼矢くんの頬に、二本の筋が描かれたように見えました。
「おれが、君を連れ出した所為だ！戦いの場に放り込んだ所為だ！君も、鷹比等さんも望んでいなかったのに！それが分かっていて、知っていて！おれは…！」
雨の滴かと思う程に、止めどなく。ほんの少しの雪明りでも、はっきりと分かる程に、光ながら落ちていく涙。
「鋼矢くん…」
彼が、泣いているのを見たのは、これが始めてでした。
粉雪さんが亡くなった時も。お父さんがわたしの身代わりに命を落としたと、なのかちゃんが死んでしまったのだとわたしに伝えてくれた時も。苦しみ続けた七花さんが永遠の眠りについた後も、鋼矢くんは決して泣いていませんでした。ずっと、そうやって――――一滴の涙も流さず、その瞳に決して拭えない暗い影を宿したまま、わたし達の――――わたしの前を、歩き続けてくれました。
本当は――――もっと違う道があったのだろうと思います。
それは、きっと、より良い結果に導いてくれたのでしょう。
でも、わたしは知っています。
――――頑張ろう、鵬喜ちゃん。
彼が、私の為に、そう言い続けてくれたのを、刀を持つ私の手を握り続けてくれたのを、知っているのです。
脳天に抜ける痛みを無視して腕を動かし、その頬にそっと触れました。皮膚からは完全に血の気が失せて冷たいのに、不思議と優しく感じられて、場違いにも、少しだけ嬉しくなりました。
「い…一緒に。一緒に、行こう、ね」
わたしの言葉に、鋼矢くんは少し驚いたような顔をして、でもすぐに涙を拭って、お祭りに？と応えてくれました。
「本当は、何でも…良いの。これからも、今までと、同じ…。だって、わた――――わたし、の。わたしの時間…。わたしの生きた、時間は、」
風巻く雪の冬。
山粧る秋。
夏の木漏れ日。
花曇りの春。
逆様に巡る季節。これが、走馬灯というものなのでしょうか。そして、その全てに。
――――鵬喜ちゃん。
寂しい夢を見ているように、孤独で、悲しい――――優しい人。
わたしが八九寺の家に来てからの全ての記憶に、鋼矢くんがいるのです。
「全部、鋼矢くんと…重なって――――」
もう、その姿がはっきりと捉えられません。ぼんやりとした影が見えるだけです。それですら、罅割れ、ぼろぼろと崩れていく。するりと滑り落ちたわたしの手を取ってくれている、鋼矢くんの指先の感覚が、遠くなっていく。自分がちゃんと声を出せているのかどうかも、分かりません。
だけど、如何か。消えてしまう前に。わたしは、鋼矢くんに、伝えたい。お願い、届いて。懺悔じゃなくて、謝罪じゃなくて、後悔じゃなくて。ただ、伝え、た――――い、のは、
「あ…り、が…」
こうやくん。
わたしががんばれたのは、こうやくんがいたからなんだよ。
いつも、いっしょにいてくれて。
――――ありがとう。
「春に知られぬ」了